大正時代と言えば、「大正デモクラシー」「大正ロマン」という言葉が真っ先に出てきませんか?
大正時代は、1912年(大正元年)から1926年(大正15年)の15年間で短い時代です。
短い時代ですが、政治的にも文化的にも大きく変化しました。
大正時代のカレーはどうだったのでしょうか?
また日本にとって大きな出来事、
- 1923年(大正12年)関東大震災
- 1927年(昭和2年)昭和金融恐慌
- 1941年(昭和16年)太平洋戦争
が起こりました。
この頃の日本人はカレーを食べることができたのでしょうか?
大正・昭和初中期までのカレーのお話を解説します。
1913年~1926年のカレー事情
まずは、大正時代から解説します。
1913年(大正2年)浦上靖介(やすうら せいすけ)さんが大阪に浦上商店を開業します。
現在のハウス食品株式会社の前身です。
薬種科学原料店(ニッキなどの和漢薬品や工業薬品も取り扱う)でした。
1914年(大正3年)東京・日本橋の岡本商店が「ロンドン土産 即席カレー」を発売します。
肉や野菜を煮込んでお湯に溶いているだけの優れもので、現在の固形ではなく缶に入った粉末状のカレー。
ちょうどそのころ婦人雑誌で通販が盛んにおこなわれ、「ロンドン土産即席カレー」も取り上げられました。
カレーライス以外にもカレースープやカレー汁などにも使えたようです。
1926年(大正15年)浦上商店(現:ハウス食品)がホームカレーの製造販売します。
独自でカレー粉の研究をしていた浦上さんは、とある食品製造会社から会社を譲渡したいと話を持ち掛けられました。
嬉しい反面、リスクも懸念されるため浦上さんは悩みますが、奥様の決断で決まります。
やりなはれ、夫婦が力を合わせたら実らんわけはあらしまへん
引用元:ハウス食品HPより

奥さんの言葉は、心強いよね!
奥様の一言で浦上さんの心が決まり、「ホームカレー」の製造・販売が始まりました。
1927年 恋と革命のインドカリー
1927年(昭和2年)6月12日は、新宿中村屋で純印度式カリーを提供した日です。
1932年(昭和7年)にとある新聞コラムで、インド独立運動家ラス・ビハリ・ボース氏の言葉があります。
東京のカレー・ライス、うまいのないナ。油が悪くてウドン粉ばかりで、胸ムカムカする。~略~カラければカレーと思つてゐるらしいの大變間違ひ。~略~安いカレー・ライスはバタアを使はないでしョ、だからマヅくて食へない。
引用元:新宿中村屋HPより
当時のカレーは、イギリスを経由した小麦を使った欧風カレーでした。
中村屋創業者の相馬愛蔵夫妻とご縁があり、ボース氏は日本に帰化します。

今回は簡単な説明だよ。
中村屋の詳しい話は、別の記事で改めて解説するね。
自国であるインド式のカレーを日本に伝えたかったボース氏の助言より、中村屋の純印度式カレーは完成します。
純印度式カレーは、
- 米は、白目米(粘りがありながらもパラッとして小粒)
→インディカ米が当時の日本人が口になじめず、埼玉県幸手で栽培されていた - 「白目米」を使用
- スパイスの香り高い
- 骨付きの大きな鶏肉
が特徴です。
街の洋食屋よりもかなり値段が高かったのですが、人気を博しました。
ラス・ヒハリ・ボース氏は、「日本のインドカレーの父」と呼ばれています。
カレーパン登場とカレー粉製造業社が勢ぞろい
1927年(昭和2年)東京江東区で名花堂がカレーパンを販売します。
昭和2年に「洋食パン」という名で実用新案で登録したことが、カレーパン発祥店と言われる理由です。
カレーパンの詳しい記事はこちらから↓
1928年(昭和3年)東京・銀座「資生堂アイスクリームパーラー」でも高級カレー登場します。
1872年(明治5年)資生堂薬局として創業。
1928年「資生堂アイスクリームパーラー」と名前を変え洋食レストランを開業します。
カレーとご飯が別々に盛られて出てくるスタイルです。(薬味付き)
1930年(昭和5年)頃になるとカレー粉製造する企業が出そろってきます。
- ノーブル商会「スイートカレー」
- 今村彌「蜂カレー」(現:ハチ食品)
- 弘樹屋商店「メタル印カレーの友」
- キンケイ食品「ギンザカレー」(現:平和食品工業株式会社)
- 日賀志屋「ヒドリ印のカレー粉」(現:ヱスビー食品)
業務用のカレー販売だけでなく家庭用としても販売されるようになります。
国産のカレーが全国に広まるきっかけ
1931年(昭和6年)C&B社カレー粉偽装事件が起こります。
当時洋食店で使われてたカレー粉といえばイギリスのC&B社(Crosse & Blackwell)です。
この時すでに国内生産のカレー粉も出回っていました。
C&B社のカレー粉は国内産のカレーよりも高額だったにもかかわらず、圧倒的なシェアを誇っていました。
1931年のある日、C&B社の缶に国産のカレーを詰めて販売していたという問題が発覚!
当時はかなりショッキングな事件で、C&B社のカレー粉の輸入がストップします。
C&B社のカレー粉が流通しません。
洋食店はC&B社の代わりに国産のカレー粉を使用します。
なんと「国産のカレー粉でも美味しいカレーが作れる!」と大評判になったんです。
また国産カレー粉を使用することで、手頃の価格でライスカレーが日本中で食べられるようになりました。

偽造するのはあかんけど、日本中にカレーが浸透したきっかけになったなんて…なんか複雑な気持ちやで。
1932年(昭和7年)大阪阪急百貨店の食堂でライスカレーが大人気になります。
1929年(昭和4年)大阪阪急百貨店は、小林一三(こばやしいちぞう)さんが創業します。
当時世界初のターミナルデパートだったとか。

小林一三さんは、阪急阪神東宝グループの創始者なんや。
また松岡修三さんの曾祖父なんやで。
大阪阪急百貨店の大食堂がオープンし、目玉メニューはもちろんライスカレーです。
2002年(平成14年)に大食堂が閉店するまで愛されたカレーライスだったことは間違いないですね。
日本国民がカレーを食べられなくなる日
日本国民がカレーを食べられなくなった時期がありました。
それは1941年~1945年の太平洋戦争があったからです。
東南アジア全域が戦闘範囲になり、東南アジアのスパイス産業は大ダメージ。
日本にスパイスを輸入できませんでした。
カレー粉の生産も低下し、一般国民はカレーを食べることができなくなります。
わずかながらのカレー生産分は軍用品へ。
また戦時中、英語は敵性語だとして使用禁止で、すべて日本語に言い換えられてしまいます。
カレーを陸軍の間では、「辛味入汁掛飯(からみいりしるかけめし)」と呼ばれていました。
印度カリー子さんが、戦中のカレーライスを再現したツイートを発見。
1941年の資料から太平洋戦争が始まって半年ぐらいのカレーを再現しています。
カロリーが1197calで、なかなかの高カロリーですね…。
当時はスパイスが手に入らなかったため、カレーの色が薄いのが印象的です。
- 1913年(大正2年)浦上靖介(やすうら せいすけ)さんが大阪に浦上商店を開業
- 1914年(大正3年)東京・日本橋の「岡本商店」が元祖カレールウを販売
- 1926年(大正15年)浦上商店(現:ハウス食品)がホームカレーの製造販売
- 1927年(昭和2年)新宿中村屋で純印度式カリーを提供した日
- 1927年(昭和2年)東京江東区で名花堂がカレーパンを販売
- 1928年(昭和3年)東京・銀座「資生堂アイスクリームパーラー」でも高級カレー登場
- 1931年(昭和6年) C&B社カレー粉偽装事件
- 1932年(昭和7年)大阪阪急百貨店の食堂でライスカレーが大人気になる
今回は大正時代から昭和初期(戦中)までを解説しました。
大正時代は、カレー粉が業者だけでなく家庭用にも出回るようになり身近な食べ物となりつつ
あったカレーでした。
しかし、1941年(昭和16年)12月から太平洋戦争が始まってしまい、状況が一変します。
カレーの命、スパイスが手に入らなくなってしまい、日本国民はカレーを口にすることが
できなかった時代でした。
1945年(昭和20年)8月15日に終戦し、その後日本国民はカレーを食べることが
できたのでしょうか…。
次回の記事は、戦後のカレー事情を解説します。
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