スパイスの香りが食欲をそそるインドカレー。
今や日本の食卓でも親しまれていますが、その道のりはどのようなものだったのでしょうか?
戦後の食文化の変遷とともに、少しずつ日本に根を下ろしていったインドカレー。
本ブログでは、その誕生の背景から、現在に至るまでの物語をひも解きます。
インドカレーが日本にやってきた頃の、知られざるストーリーを一緒に探求してみませんか?
インドカレーが日本に浸透する前に
スパイスの複雑な香りと本格的な調理法のインドカレー。
その味わいが日本で広く受け入れられるようになる前、日本のカレー事情はどのようなものだったのでしょうか?
インドカレーの物語をひも解く前に、まずは日本のカレーの原点について。
カレーが日本に伝来した頃の様子からご紹介していきましょう。
カレーが日本に伝わった経緯
日本の食文化に深く根付いているカレーライス。
そのルーツをたどると、意外にも明治時代の初期、遠いイギリスの地からやってきたことがわかります。
なぜ、インドの料理であるカレーがイギリスから?と不思議に思われるかもしれません。
その背景には、当時のイギリスがインドを植民地として支配していたという歴史的な事実があります。
イギリスから伝わったカレー
イギリスを経由して日本に伝えられたカレーは、小麦粉をベースとしたとろみのあるカレーが主流でした。
このカレーは、日本の人々の味覚に合わせて徐々に広まっていきました。

なるほどなぁ、これが後に日本の家庭料理の定番になる、いわゆる欧風カレーやなぁ。
インドカレー誕生の背景
明治の文明開化の波に乗り、西洋の文化が日本へと押し寄せる中。
異国の香り高いインドカレーは、どのようにして日本に根を下ろしたのでしょうか。
私たちが今日、インドカレーを気軽に楽しめるようになった背景があります。
それは、数奇な運命に翻弄(ほんろう)されながらも、情熱を持って本場の味を伝えようとした人物たちの存在がありました。
ここでは、日本におけるインドカレーの誕生に深く関わった、立役者たちの物語をひも解いていきましょう。
インドカレー誕生の立役者たち
日本の本格インドカレーの歴史を語る上で、決して忘れてはならない二人います。
一人は、祖国の独立を強く願い、動乱の時代を生き抜いたインドの革命家。
そしてもう一人は、インド人自身が創業し、日本初の本格的なインド料理店を立ち上げた起業家です。

ラス・ビハリ・ボース氏
日本のインドカレーの父とも称されるラス・ビハリ・ボース氏。
1886年(明治19年)、イギリスの植民地支配下にあったインド・ベンガルで生を受けました。
故郷の苦難を目の当たりにした若きボースは、祖国解放への強い思いを胸に、イギリス総督への襲撃事件を起こします。
襲撃後にボースは、祖国を追われる身となりました。

ボースさんには、なんと1万2千ルピーもの懸賞金が懸けられてたらしいで!
しかし、彼の日本潜伏はイギリス政府の知るところとなります。
当時日英同盟を結んでいた日本政府は、ボースに国外退去命令を発令。
それでもボースは、日本を離れることを拒み、ひっそりと身を隠す日々を送ります。
そんな中、孫文の依頼を受け、ボースの異国での潜伏生活を陰ながら支えた日本人がいました。
それは、アジア主義的な政治団体『玄洋社』を率いる頭山 満(とうやま みつる)氏でした。

へぇ、頭山さんは、アジア主義を熱心に言うてた人やったんやなぁ。日本が中心になって、アジアの民族がみんなで手ぇ組んで、ヨーロッパとかのアメリカみたいな強い国に立ち向かおうっていう、考えを持っとったんやで。
頭山氏は、東京・新宿で創業した老舗料亭『中村屋』の創業者である相馬愛蔵・黒光(こっこう)夫妻に、ボースの潜伏生活の支援を託します。
新聞報道で一連の騒動を知っていた相馬夫妻は、危険を承知の上で、中村屋の敷地内にボースを匿うことを決意します。
亡命者を匿う行為は、当時の日本政府を欺くことになります。
しかし、相馬夫妻をはじめ、中村屋の従業員たちもまた、ボースの境遇に深く同情し、一致団結して彼を守り抜いたのです。
その後、日本政府の政治方針が変わり、ボースは保護されることになります。
しかし、イギリスからの追及は依然として続いていました。
異国での逃亡生活は、ボースの心身に大きな負担を強いたことでしょう。
そんな彼の心の支えとなったのが、相馬夫妻の長女、俊子さんでした。
女子学院高等科で学んでいた俊子さんは、英語が堪能だったため、ボースの身の回りのお世話や、外部との連絡役を務めていました。
そして1918年(大正7年)、逃亡生活を送る中で、二人は固い絆で結ばれ、人生の伴侶を得ます。

ボース32歳、俊子20歳でした。
翌年、1919年(大正8年)に第一次世界大戦が終結すると、イギリスの追及も終わります。
ボースはついに自由の身となるのです。
ボースと俊子の間には一男一女が授かり、幸せな日々が訪れましたが、その喜びも束の間、悲劇が二人を襲います。
1919年(大正8年)、俊子さんは逃亡生活の心労と肺炎のため、わずか26歳という若さでこの世を去ってしまいます。

せやのに、やっとこれからや!って時やったのになぁ…。
その後、ボース氏は1923年(大正12年)に日本国籍を取得します。

へぇ、ボースさんが日本国籍取ってから漢字で『防須(ぼうす)』っていう名前になったんやて。名付け親は、第29代内閣総理大臣の犬養毅さんやったって聞いたで。
インド独立のために長年奔走してきたボースでしたが、晩年は病に倒れました。
1945年(昭和20年)1月21日、日本でその生涯を閉じます。
彼の死から2年後の1947年(昭和22年)、ついにインドは長年の悲願であったイギリスから独立を果たすのです。
本格インドカレーの誕生へ
大正末期、中村屋の周辺には百貨店が進出し始め、将来に不安を感じ始めていました。
また、以前から顧客より『ちょっと一息つける場所が欲しい』という声が寄せられていたこともあり、新たな試みとして喫茶を開業する計画が持ち上がります。
そんな折、ボースは祖国インドの本格的なカレーの味を日本の人々に知ってもらいたいと、喫茶のメニューにインドカレーを加えることを提案します。
実はボースは、潜伏期間中に相馬夫妻に故郷の味である本場のカレーを度々振る舞っていたのです。
そして1927年(昭和2年)6月12日、喫茶の開店と同時に、日本で初めてとなる本格的なインドカレーの提供が開始されます。
その名は『純印度式カリー』。
本場のインドカレーは、インディカ米を使用し、何種類ものスパイスが織りなす複雑な香りが特徴です。
さらに、当時の日本人にとって、骨付きの鶏肉がごろりと入った料理は、全くなじみのないものでした。

ほな、ごっつい骨付きの鶏肉が目の前に出てきたら、そらもうびっくりするやろなぁ!
相馬夫妻は、ボースの提案を受け入れつつも、日本人の味覚や食文化を考慮します。
インディカ米のようにソースが浸透しやすく、かつ日本人が慣れ親しんだジャポニカ米のもちもちとした食感を持つ『白目米』へと変更します。

へぇー、白目米ってのは江戸時代のめっちゃええお米や。昭和の初め頃にはほんまにごく一部の農家でしか作られてへんかった、まさに幻のお米やったんやて。
骨付き鶏肉や本格的なスパイスの香りに次第に慣れてきたお客様が増え、純印度式カリーの売り上げは着実に伸びていきました。
当時、純印度式カリーは一杯80銭と、町の洋食屋のカレーの10~12銭に比べて高価でした。
しかし、その本格的なインドカレーは多くの人々を魅了し、大ヒットとなったのです。

ほんなら、当時の洋食屋のカレーの約8倍も値段したんやて!
その後、中村屋は『純印度式カリー』が誕生した6月12日を、『恋と革命のインドカリーの日』として制定しました。
そして、純印度式カリーの誕生から5年後の1932年(昭和7年)には、新聞にその特徴を捉えた記事が掲載されます。
東京のカレー・ライス、うまいのないナ。油が悪くてウドン粉ばかりで、胸ムカムカする。~略~カラければカレーと思つてゐるらしいの大變間違ひ。~略~安いカレー・ライスはバタアを使はないでしョ、だからマヅくて食へない
引用元:中村屋HP https://www.nakamuraya.co.jp/pavilion/products/pro_001.html
これは、イギリスから伝わった、小麦粉ベースのカレーが日本の食卓に深く根付いている状況に、とああるボースの嘆きの言葉とも言えるでしょう。

せやから、日本で普通に食べられてたんは、インドを植民地にしてたイギリスのカレーやったんやね。ボースさんは、ほんまもんのインドカレーの味を日本に伝えたかったんやろなぁ。
現在でも、『純印度式カリー』は昭和2年の発売以来、中村屋のロングセラー商品として、多くの人々に愛され続けています。
レストラン&カフェ Manna/マンナ
住所: 東京都新宿区新宿3-26-13 新宿中村屋ビル B2F
営業時間:【月~土】11:00~22:00(L.O 21:30)
【日・祝】11:00~21:00(L.O 20:30)
定 休 日: 1月1日
新宿中村屋のHP:https://www.nakamuraya.co.jp/manna/
※2024年2月時点での情報です。
A.M.ナイル氏
本格インドカレーが日本に広がりを見せる上で、もう一人忘れてはならない重要な人物がいます。
その名は、A.M.ナイル氏。
インド南部の美しい街、トリヴァンドラムで生まれた彼は、若き頃より祖国の独立運動に身を投じます。
そのためナイルは、イギリス政府の厳しい監視下に置かれることになりました。
自由を求め、ナイルは兄が留学していた日本へと渡る決意をします。
1928年(昭和3年)、ナイルは学問の府、京都帝国大学の工学部に籍を置きました。
そして、この地で運命的な出会いを果たします。
それは、新宿中村屋の『純印度式カレー』の生みの親である、ラス・ビハリ・ボース氏との出会いでした。

ボースさんは、日本に本格的なインドカレーを根付かせた、ほんまにパイオニアやったんやなぁ。
志を同じくするボースと出会ったナイルは、大アジア主義を掲げる頭山満や大川周明らと行動をともにし、インドの独立運動に尽力します。
長年の懸命な活動が実を結び、1947年(昭和22年)8月、インドはイギリスからの独立を勝ち取りました。
ナイル氏はインド国籍を取得しますが、日本に留まります。
在日インド人会会長や駐日インド大使顧問といった要職を歴任し、インド料理の普及を通じて日印友好関係の発展に大きく貢献しました。
その功績が認められ、1984年(昭和59年)には、日本政府より勲三等瑞宝章が授与されています。
1990年(平成2年)4月、故郷トリヴァンドラムへの帰郷中に体調を崩され、その生涯を閉じられました。
インド人による日本初のインド料理店の誕生
祖国インドの独立という悲願を達成した後も、ナイルの日本への思いは、尽きることはありませんでした。
ナイルは、インド国籍を取得していたものの、彼は日本国籍も取得します。
日本への感謝と『日印親善は台所から』という信念を胸に、インド料理店を開くことを決意しました。
1949年(昭和24年)、東京・銀座に、インド人自身が手がける日本初の本格的なインド料理店、『ナイルレストラン』が誕生したのです。

創業以来、ナイルレストランの看板メニュー言うたら、やっぱりムルギーランチやんなぁ!
その後もナイル氏の情熱とたゆまぬ努力は、着実に実を結んでいきました。
1960年代以降になると、彼の店の影響を受け、日本各地に本格的なインドカレーを提供する専門店が次々とオープンします。
それまで一部の人々しか知らなかった本格的なインドカレーが、広く日本の人々に受け入れられるようになっていったのです。
現在、ナイルレストランは、三代目のナイル善己氏が初代の熱い想いを受け継ぎ、伝統の味を守り続けています。
印度料理専門店ナイルレストラン
〒104-0061東京都中央区銀座4丁目10-7
営業時間:【月~土】11:30~21:30
【日・祝】11:30~20:30
定休日:火曜日・第1第3水曜日
お店のHP:https://www.ginza-nair.com/
※2024年2月時点での情報です。
本格インドカレーが日本の食卓を彩るまで
1980年代後半から1990年代にかけて、日本は本格的なインドカレーが広まります。
それまで、『カレーライス』が日本の食卓の定番でした。

本場のスパイスが織りなす奥深いインドカレーは、私たちの食文化に新たな風を吹き込みます。
では、インドカレーは日本の食生活にどのような彩りをもたらしたのでしょうか?
日本のカレー文化、新たな潮流
本格インドカレーの登場は、日本のカレー文化に大きな変化をもたらしました。
それまで、洋食の一角として捉えられていたカレーに、『インド』という新たなルーツが加わったのです。
スパイスの複雑な香り、地域によって異なるさまざまなカレーは、日本人の味覚に新鮮な驚きを与え、好奇心を刺激しました。
これにより、親しみやすい欧風カレーに加え、インド各地の特色豊かなカレーが楽しめるようになり、日本のカレー文化はより一層、多様性を増していったのです。
スパイスの魔法、日本人の心をつかむ
インドカレーは、これまで日本であまり馴染みのなかったスパイスへの関心を飛躍的に高めました。
かつては専門的なお店でしか手に入らなかったスパイスが、今ではスーパーマーケットの棚にも並んでいます。
家庭でも手軽に本格的なインドカレーを楽しめるようになりました。
さらに、スパイスには様々な健康効果があることも知られるようになります。
健康志向の高まりとともに、スパイスをふんだんに使用するインドカレーは、ますます注目を集めるようになりました。
広がるインドの食文化、深まる日印のつながり
インドカレーを求める人々の増加は、カレー作りに欠かせないインド産のスパイスや食材の輸入量を増やしました。
また、その奥深い味わいに触れるうちに、インドの文化や習慣そのものに興味を持つ人も増えています。
本場の味を求めてインドへ旅する人も少なくありません。
日本全国には、インドカレーを提供する専門店が次々と誕生し、地域によっては『カレー激戦区』と呼ばれている場所もあります。
そして、その影響はインド料理に留まらず、スパイスを多用するタイ料理やベトナム料理など、他のアジア料理の人気にもつながっているのです。
【まとめ】スパイスの香りが紡ぐ、日本のカレー新時代
明治の文明開化から始まり、激動の時代を生き抜いた人々との出会い。
そして日本独自の進化を遂げ、私たちの食卓に欠かせない存在となるまでの、インドカレーの足跡をたどってきました。
ラス・ビハリ・ボース氏の故郷への熱い思い。
A.M.ナイル氏の『日印親善は台所から』という信念。
そして何よりも、異国の味を受け入れ、独自の文化を育んできた日本の人々の寛容さ。
これらの要素が絡み合い、日本のカレー文化が築かれたと言えるでしょう。
戦後の経済成長とともに、豊かになった日本の食卓。
その中で、異国からやってきたインドカレーは、単なる料理の枠を超え、日本に深く根を下ろしました。
芳醇なスパイスの香りが織りなす複雑な味わいは、それまでの日本のカレーにはなかった魅力です。
インドカレーは、多くの人々の舌を魅了し、食の選択肢を大きく広げてきました。
これからも、インドカレーはさらに多くの人々に愛され、日本の食卓を豊かに彩り続けることでしょう。
- ラス・ビハリ・ボース氏は、日本初インドカレーを提供
- A.M.ナイル氏は、日本初インド人によるインド料理を開店
- 日本にカレーの多様化につながったインドカレー
参考:新宿中村屋(https://www.nakamuraya.co.jp/)
印度料理専門店ナイルレストラン(https://www.ginza-nair.com/)
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